アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -17ページ目
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アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161117

 【晴】《16日の続き》
 一人ではなく幾人かと一緒に焼くために、もんじゃきにもコツのようなものがあって、多少の器用さが必要なのだ。

 この辺では京子ちゃんが一番上手に焼く事が出来たから、いつも台を仕切るのは京子ちゃんだった。
私はそれが少し面白くなかったが、京子ちゃんと組むと何となく楽にもんじゃきが出来たので我慢した。
上の姉は一人でもんじゃきをするのが嫌なので、よく私をだしにしたが、やれ食べ方が汚いとか、やれ早くヘラを使いすぎるとか、四六時中文句を言って本当にうるさかった。

 もんじゃき屋は鈴木の他にも何軒かあったのだが、一種の縄張りのようなものがあって、行きつけない所に行くと、そこを根城にしている奴らが無言の圧力をかけて来た。

 普段はきまった金額のお小遣いしか貰えないが、たまにお客に来た親戚から思わぬ小遣いを貰った時など、「おばさん特大ね」と、めったに言えないセリフを聞えるように口にした。

「ナニーッ、おめえ特大頼むんか。いいなあ、いいなあ」

 そんな時の気分は、まるで大名になったようだった。
特大はお椀ではなく、薄緑色のどんぶりが出て来るので、物凄く目立って気持ちが良かった。

 同じ台の奴らだけでなく、他の台の奴らも、チラチラと私の方を盗み見ているのが、何となく気配で分かり、それが何とも自尊心を刺激して、思わず得意顔になってしまうのを、どうしてもおさえられなかった。

 かと言って、そんな事は年に一回あれば良い方だったし、一杯50円の特大もんじゃきを食べ終わると、(あ〃、頼むんじゃなかったな)と、いつも後悔した。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161116

 【晴】
 秋も深まって来ると、鈴木駄菓子屋の縁側には、もんじゃき(文字焼)の台が3台並んで、子供達は我先に駆けつけた。

 お椀いっぱいの中に、もんじゃきの素地だけ入ったのが一杯5円で、量が少し増えて切りイカや干しエビが入ると10円、たまご入りは20円で、これはほとんど大人用だった。

 もんじゃきの中に入れる具は持ち込み自由だったから、たまには家からたまごを持って行ける時もあった。
そんな時は他の奴らに取られないように、いつもより強く縄張りを出張して、隣の奴のもんじゃきが少しでも自分のにくっついたりしたら、物凄い勢いで抗議しただけでなく、罰として相手のもんじゃきを少しぶん取った。

 女の子は刻みしょうがを入れて、もんじゃきを赤く染めるのを好み、男の子は海苔を入れて黒くしたのを好んで作った。

 もんじゃきはお好み焼きと違うから、野菜が入る事はほとんどなかったけれど、今思えば、それは許されない贅沢だったのかもしれない。

 もんじゃきの台は普通4人が一緒に使うので、行く時はなるべく仲間で一台占拠出来るように顔見知りを誘い合った。

 台がいっぱいの時は縁側に腰掛けて自分達の番が来るのを待っていたが、先に焼いている奴らも大抵は知った連中だったから、あまり退屈する事はなかった。

 備え付けの醤油とソースは無料だったから、欲張りはそれで分量を増やそうと、気ちがいのようにいっぱい入れるから、結局は食べられなくなって泣きながら家に帰った。

 金子のタケは自分のハナを右の袖口でいつもなびっていたので、みんなタケの右側に座るのを嫌がった。

 林のトシは小さじ一杯位の量でチマチマと焼く。

 だから皆が焼き終わってもお椀に半分以上残っていて、それがトシには何とも嬉しかったのだが、大抵は無理矢理ぶんまけ(椀の中身を全部鉄板に流す事)をされて、いつもピーピー泣いていたが、泣きながらも結局は全部食った。

 高際の和雄は一人っ子だったから、他の誰よりも豪華な具を家から持って来た。

 たまごにキャベツ、貝のヒモに赤エビ、時には肉もあった。
しかし和雄がそれを楽しめる機会はほとんどなく、おおかたは焼く前に年上の奴らの脅しと騙しで取り上げられ、逆にこれちんべ(ほんの少し)を貰って食べるという始末だった。

「和雄おめえそんな物を食うと、また頭にできもんが出来るぞ。頭にできもんが出来ると、その度にバカになるんだぞ。こっちへよこせ、代りに俺が食ってやるから」と、こんな調子である。

 和雄は何も入っていないもんじゃきを焼きながら、本当なら自分が入れたはずの具の入った他人のもんじゃきをさも恨めしそうに見ながら、その匂いに誘われて「ねえ少しでいいからちょうだい」と、必死に頼むのだった。

「仕様がねえな。毒だから少しだけだぞ」

「ウン少しでいい」

 1cm四方程のもんじゃきを貰って、和雄は嬉しそうにそれを食った。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161115

 【雨時々曇】
 学校から帰ると、家の中が薬の臭いでいっぱいだった。
見ると火鉢に土瓶が掛かっていた。
母がいつもの実母散を煎じているのだ。
実母散は年に何回か越後からやってくる毒消し売りのおばさんが持って来て、桐箱の薬入れにいつも入っていた。

 母だけでなく祖母もよく火鉢で薬を煎じていたが、煎じ薬というのは、どれも皆似たような臭いがした。
数少ない例外が、はしかの時に飲まされるキンカンの煎じ薬とか、風邪の時のゆずの煎じ液、それから何に効くのか分からない干したリンゴの皮の煎じ液だろうか。

 医者でもらう薬は粉薬と水薬で、錠剤やカプセルはほとんど目にする事はなく、下半分がくもりガラスの、「薬局」という金文字が書かれた仕切りの向こうで、天井まで並んでいる大きな試薬ビンから、細長い金のサジで中の薬を天秤はかりに乗せては、ひとつひとつを独特の包み方で包んで行く先生の指先を見ていると、何だか病気が治ってしまうような頼もしさを感じた。

 医者にもらった薬は、病人の枕元に置いた盆の上に、水差しと湯のみ茶碗と一緒に置かれ、その家を訪ねた人には誰の目にもそれと分かった。

 あの頃は個室などというものは、ごく限られた人達の世界の話だったから、病人にとっては、かえって心強い環境だったかもしれない。
なぜなら、いつでも誰かが自分を見守っているのを実感する事が出来たから。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161114

 【曇】
 学校からの帰り道に、7丁目のオモチャ屋の店先を冷やかしていると、いつものように店のオバさんとせがれが出て来て、意地悪そうな目付きで「オモチャに触るんじゃないよ」とか、「買わないんならサッサと行きな」とか、相変わらずの嫌がらせを始めた。

 オモチャ屋というのは子供がお客さんなのに、この店の人達はなんでこんなに子供を嫌がるのだろうと、私は不思議でならなかった。

 子供嫌いがオモチャ屋をやっていても仕方がないだろうにと思うし、第一子供にとっては迷惑な話だった。

 それでも我が家のオモチャや、私が自分の小遣いで買ったものは、大抵その店のものなのだ。

 親が一緒の時には、まるで別人のように態度が変わって、私は子供ながら、世の中には嫌な性格の人間もいるものだと、つくづく思った。

 ある日、そのオモチャ屋の店先にあったゴム製のクモのオモチャと同じ品物を、大日様のお祭りの帰りに寄った高島屋で見付け、値段が件の店の半値以下だったので直ぐに買って持ち帰った。

 別に人をおどかすつもりはなかったのだが、北側の縁側のガラス戸の表に、オモチャのクモの腹に付いている吸盤を舌で舐めてから、ギュッと押し付けて止めた。

 そこはくもりガラスだったから、大人の手の平ほどの大きさのクモは、まるで本物が張り付いているようだった。

 私は大満足で眺めていると、「ちょっとお使いに行って」と母が呼んだ。

 直ぐに母の所に行き、言われたお使いをして家に戻ると、玄関先に人だかりがして騒がしい。

 何だろうと思って家にあがると、母と隣の叔母が屁っ放り腰でホウキを構えている。

「どうしたの?」と聞くと、母と叔母は「あれっあれっ」とガラス戸を指差して叫んだ。

 私は「なんだこれか」と言いながら、ガラス戸の表に回ってゴムのクモを外すと、それを母に見せた。

 母も叔母も、最初は私が本物のクモを素手で掴んだと思ったらしく、および腰で手の中のクモを見ていたが、それがオモチャだと分かったとたん、持っていたホウキで物言わず私の頭を引っ叩いた。

「この子は本当に悪い子だ。どうしてこんな悪さばかりするんだろう。この悪ガキが」

 叔母も一緒になってホウキを振り上げて追って来たので、私は言い訳をするヒマもなく、裸足で玄関から外に逃げ出した。
その間に2~3回ぶっとばされたがよく覚えていない。

 その夜、空腹に耐えかねてそっと家に戻ると、母は何事もなかったように私を迎えてくれた。

 私は遅い晩飯を掻っ込みながら、今日の事は怒られる筋合いはないのになと思った。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161113

 【晴、午後西の風】《12日の続き》
 ギンナンの実から種を外し、よく洗って天日で乾かしてから、大きな蓋付きの缶に入れて保存した。

 私は時々缶の中から何粒かを取り出して、火鉢の練炭の穴の上に乗せて焼いた。

 そのまま焼くとパチンと跳ね飛ぶから、その前に軽く噛んでカラを割っておく。

 その時失敗すると口の中に生っぽいでんぷん味が広がって、思わずぺッとツバを吐き出したくなるが、そんな事をするとたちまち大目玉を食らうので、全部噛み終わるまで我慢しなければならない。

 ギンナンの実は練炭の強い火で直ぐに焼けた。

 指と歯を使ってカラを取ると、中から半透明の緑の美しい玉が出て来る。

 口に入れると濃厚な味と香りがいっぱいに広がって、何だか幸せな気分になったものだ。

 住み込みの人の中には、風邪をひいた時など玄関の土間に吊り下がっているニンニクの皮をむいて、練炭で焼いて食べたりしたが、私にはとても食べられなかった。
その代り、茶箪笥の引き出しにいつも入っていたスルメは、口が淋しい時などはよく焼いて食べた。
少し腹が空いていると、形が木の葉のような海苔餅や、こちこちになった鏡餅の欠片を焼いた。
そんなものが、茶箪笥の引き出しや戸袋の中には、ほとんど一年中しまってあったのだ。

 正月の餅は2月の中旬くらいまで食べられるだけの量をついたし、彼岸や法事の墓参に持って行く団子は大抵余分に作ったから、醤油をつけて火鉢で焼き、みたらし団子にして食べた。

 十五夜と十三夜の団子は、翌日まだ少し柔らかい内に薄く切って、醤油だけを付け焼きにしたものと、砂糖を入れて甘辛のタレを付けたものも作った。

 それだけではなく、火鉢の上にはよく煮物の鍋が乗っていて、一日中コトコトと良い匂いを家中に流していた。

 秋も深まると、そんな頃の情景が、豊かな色と香りと共に想い出される。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161112

 【雨のち曇】
 祖母にギンナン採りを言い付かったので、学校の帰りに通5丁目の八雲神社まで足を伸ばしたら、銀杏の木の下は、黄金色の落葉とギンナンの実でいっぱいだった。

 熟したギンナンの実はウンコのような匂いがするし、人によっては触るとかぶれてしまうから、木の枝を折って作った箸で、用意して来た袋に詰めるだけ詰めて家に持ち帰ると、「これじゃ足りないね。もう少し採って来ておくれ」と祖母が言った。

「えーっこんなにあるのに」と私は文句たらたらだったが、祖母は「実をはがして種だけにすると、3合にもならないよ」と、素っ気無く答えた。

 私は仕方なくザルを片手に、今度はすぐ近くの八雲神社の境内に行ったが、あそこはどうも苦手な場所だった。

 普通に遊びに行くのなら何という事もないのだが、春は梅、夏はビワ、秋は柿と、目を盗んではいただいているので、もしもギンナンを採っているところを見付かると、絶対に文句を言われると思うからだ。

 私は正面の鳥居をくぐって境内には入らずに、青年団小屋の前の坂を上って神社の北裏を廻り、神楽殿裏の広場から入って直ぐの銀杏の木の下に直接出た。

 あたり一面銀杏の実だらけで、ウンコの匂いが漂っていた。

 私は本殿の方に注意しながら急いで実を拾い集め、もう箸で挟んでいられないので、ぐちゃっとする実を手で直に掴んではカゴの中に投げ入れていった。

 両手でやっと持てる位集めると、私は来た道を引き返して家に戻ると、「お祖母ちゃん採って来たよ」とカゴを見せた。

「オヤッ、ずいぶん採れたね。これなら一升はあるよ」と、祖母は嬉しそうに言った。

 その夜に、私の顔と両腕は、見事にふくれあがって、翌日は学校を休む事になった。http://www.atelierhakubi.com/
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