アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -16ページ目

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161124

 【晴】
 食パンを三角に切って黒蜜に浸し、串に刺したのが、正門前のパン屋で5円で売っていた。

 給食は一日おきだったから、二日に一度は弁当を持って来なければならないのだが、何かの事情で持って来られない時には、外でパンを買っても良い事になっていたので、私はそれを良い事に、弁当代わりのパンだと言って黒蜜パンを教室に持ち込み、羨ましがる仲間に見せびらかしながら食べていた。

「ああっ、ずりいぞ。そういうの教室に持ち込んじゃわりいんだぞ。お菓子を学校に持って来ちゃわりいんだぞ」

 宮内が口をとがらせて抗議した。

「お菓子じゃねえもんパンだもん。パンは弁当にしていいんだもん」

「そんなのパンじゃねえもん。ミツのついたパンなんかパンじゃねえもん。そりゃお菓子だもん」

「んじゃあパンにジャムつけたらパンじゃなくなるんかよ。パンにアンコやクリーム入れるとパンじゃなくなるんかよ」

 我ながら見事な反論だと思った。

「アンパンやジャムパンは串に刺さってねえもん。串に刺さったパンなんかねえもん」

 相手もなかなか引き下がらなかった。

「んじゃあイモフライはお菓子かよ。ヤキイカはお菓子かよ」

「ダンゴはお菓子だんべ。ベッコ飴だってお菓子だんべ。みんな串に刺さってるだんべ」

「へえー、それじゃあウナギの蒲焼はお菓子かよ」

「ウナギの蒲焼はお菓子じゃねえもん」

「おめえさっき串に刺さってるもんは何でもお菓子だって言ったじゃねえか」

「全部お菓子だなんて言ってねえもん。お菓子が多いって言ったんだもん」

「うるせえなおめえ達、どっちだっていいじゃねえか。早くメシ食っちゃえよ。そろそろ先生が来るぞ」

 仕方がないので宮内に一本やった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161123

 【晴】《22日の続き》
 書庫の北の壁いっぱいに置いてあるガラス戸棚の中には、何やら得体の知れないものが雑然としまってあった。

 高さが1m近くある下皿天秤の隣には、本物か偽物か分からないドクロが、空ろな目を向いてこっちを見ている。

 子供の腕で一抱え程もある水晶の山や、真っ黒な蒸気機関車の模型。

 物凄い量の天保通宝や一文銭の束があるかと思えば、どう見ても内臓としか見えない物が入っている巨大な標本瓶の列。

 天井に近い所には、沢山の図案見本と呉服のポスターが山と積まれていた。

 でも私が一番興味を持ったのは、そこだけは板戸になっている一番下の戸棚の中だった。

 最初はなかなか開けられずに苦労したが、ようやく人一人が入れる位に開ける事が出来た戸の中には、子供用の鉄兜やコルク鉄砲、そして細密な作りのサーベルのオモチャなどが入っていた。

 誰がいつの頃この場所にしまったのか今では謎だったが、もしかしたら当事者は戦争で死んでしまって、この事を知っている人が誰もいなくなってしまったのかもしれない。

 そう思うと、この場所は何か神聖な小塚のような気がして、私は自分が聖所を侵す者に思えて、その時以来書庫に入り込む事はなかった。

 この場所は私が卒業するまで発見される事はなく、その後どうなったのか分からない。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161122

 【晴】《21日の続き》
 子供のくせに妙に大人っぽい知識があるのは、年の離れた兄達に囲まれて育ったせいだと思う。

 たとえ断片的ではあっても、大人の知識のおかげで世界が広く見えた事は確かだった。
だから、たとえこの秘密を気の合った仲間に教えて、一緒に書庫にもぐり込んだとしても、多分宝の持ち腐れになるだけだろうと直感していたので、私はかたくなに口を閉ざして語らなかった。

 書庫には書籍だけでなく、沢山の写真も埃まみれで山と積まれていた。

 写真の多くは厚い台紙に貼られていたが、細長いアルバムになっているものも相当あった。

 そのどれもが写真も台紙もセピア色に変色していて、中にはよく分からない程に色ぬけしているものもあった。

 おびただしい写真の大半は明治から大正にかけての記念写真が多く、校舎の落成記念や卒業記念、服装から判断して先生の従軍記念などもあった。
変わったところでは誰かの葬儀を写したもの、仮装大会や学芸会の場面を写したものもあり、見ていて飽きる事がなかった。

 写真の一枚一枚に写っている子供達のほとんどは多分もうこの世の人ではないか、生きているとしても相当の年寄りになっているのかと思うと、何かとても神秘的な気分になった。

 その時私の手にした写真は、古いもので70年、新しくても40年近い年数が経ったものだった。

 今ではとても考えられないが、あの頃はまだ戦後の混乱が少し残っていたのだと思う。

 でなければ、あんな不思議な空間が手付かずにあるはずがないのだ。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161121

 【晴】
 本校舎の東端にある図書室に入ると、右手に少し引っ込んだ形で黒ずんだ作りのカウンターがあり、その奥の書庫の入口は、本の山とガラクタで塞がれていたので、誰も中には入れないと思っていたのだが、実際には壁いっぱいに建て付けられた書架の下の腰板の一部が、まるでカラクリ仕掛けのように外れる作りになっていて、そこをくぐると書庫の中に出入り出来るのだった。

 その扉の発見は、まさしくケガの功名という奴で、イタズラの罰として図書整理の居残り仕事をさせられた時に、偶然に見付けたのだった。

 その扉の事を知っているのは、多分私だけだったから、私は時々その扉から書庫の中に入って、南側の小さな窓から細々と入る陽の光だけの薄暗くて埃くさい空間の冒険を楽しんだ。

 書庫は南北に細長い造りで、南半分は幅2間の長さ3間、北半分は幅1間の長さ2間位だった。

 北半分が南より狭いのは、カウンター部分が占めているからだが、大部分の人達はカウンターの向こう側は教室だと思っていた。

 外から見ると校舎の南側に小さな窓があるのは分かるのだが、その奥に部屋があるのを知っているのは多分私だけだったし、私はその秘密を他人に話すつもりは毛頭なかった。

 書庫の中は文字通り宝の山だった。

 多分戦時中に何かの事情で人の目から隠したとしか思えないような内容の本が山積みされていて、その中には美しくも妖しい挿絵がいっぱいのバートン版「アラビアンナイト」や、それに類した雰囲気の本が、あちこちに散乱していた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161120

 【晴】
 まだ日のある内に引き上げていった「おでん屋」の三田さんのあとに、いつになく「チビおでん」が屋台を引っ張って緑町に入って来た。

 「チビおでん」は五十部から今福にかけてを流しているので、こっちの方にはめったに顔を見せない。

 珍しい事もあるものだと思って、「おじさん、どうしたんだい?今度縄張りが変わったのかい?」と皆で尋ねると、「そうじゃねえけんどさ、ちょっと気が向いたんで来てみただけさ」と、何となく照れくさそうに答えた。

 チビおでんの本業はおでん屋かと思えば、本当は染屋の職人だという人もいるし、大工だという人もいる。

 実際はどうなのかよく分からなかったが、私達にとっては「チビおでん」はおでん屋が一番似合っていると思った。

 「チビおでん」はもうひとつ「八木節」の名人という顔を持っていて、色々な祭に合わせて催される「八木節大会」では、いつも抜群の成績を出していた。

「おじさん今頃来たってダメだよ。俺達さっき三田さんから買って食っちまったよ。もう少し早く来れば良かったのに」と言うと、「それじゃあ向こうに悪いよ。お互い商売なんだからさ」と、答えるのだった。

 三田さんはおでんの他にシュウマイも売っていて、服装も屋台も清潔だったが、「チビおでん」の屋台は長年の年季がしみ込んでいるために、全体に黒茶色だったから、何となく汚らしかった。

 それでも少し濃い目の味は相当に美味しいので、子供だけでなく大人にも結構人気があったのだ。

 私達とオダを上げている内におでんの匂いが届いたのか、チラホラと器を持ったお母さん達が晩飯のおかずにしようと、通りに出て来たのを見て、「かえろかえろ、カラスが鳴くから帰ろ」と口々にはやしながら、皆めいめいに家路についた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161119

 【雨】
 木枯しが吹き始めると、元町の何軒かの店で焼きいもを売り始める。

 栄町の渡辺は輪切りのイモを大きな平たい鉄ナベを使って焼くのだが、ふりかかったゴマと塩がイモの甘さをひき立て、ポクポクとした舌触りと合わさって思わず唸ってしまう程の美味しさだった。

 値段は10円で新聞紙の袋いっぱい、ちょうど5枚位の枚数だったから、夕飯前の小腹を2~3人で静めるにはちょうど良い量だったと思う。

 渡辺は夜の9時近くまで店を開けていたので、夜来の客のもてなしにと、よく使いに出された。

 薬師堂の近くにある外燈の下を走り抜けて渡辺の店の中に飛び込むと、土間のかまどにはワラがたかれて、ナベの上の大きな蓋の隙間から、立ち上る甘くて暖かい湯気が、家中に漂っていた。

 100円の焼きいもは、子供の両手にもあまる重さと、熱い位のぬくもりを伝えて、家までの道程を楽しませてくれた。

 同じ焼きいもでも、つぼ焼きは少し値段が高く、近くでは7丁目か西宮まで行かなければならない上に、食べる時に皮をむくのがなかなか大変だったから、子供にはあまり人気がなかったが、大きなトックリのような焼きつぼと、コークスの赤々と燃える色が楽しくて、別に買う訳でもないのに、よく店のオバさんの話し相手になっていた。

 ポケットに少し小遣いが残っている時には、帰り際に一本買ってカイロ代りに懐に入れて店を出たが、イモのぬくもりは意外に長持ちして、家に着いてもまだ暖かかった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161118

 【曇】《17日の続き》
 特大のもんじゃきは、腹の空いた大人ならともかく子供には大き過ぎるので、半分の量を越えると余し気味になり、あとは人にくれるのが嫌という理由で、無理に口に運んだ。
だから後半は大抵苦しい思いをしながらのもんじゃきとなった。

「もう食えねえんだろう。無理して食うと腹こわすから、その辺でやめといた方がいいぞ」

 期待に目を輝かせながらおためごかしを言う奴らに囲まれると、つい弱気になって(残りはみんなにくれちゃおうかな)などと思ってしまうのだが、なぜかこれがくれられない。

 食べてもどうせ美味しくないのに、どんぶりを両手で抱えて頑張ってしまうのだ。

 それはケチというより負け惜しみなのかもしれない。

 意気揚々とどんぶりにサジを入れた手前、「まいりました」とは言えないというところだろう。

 そんな日の晩飯に限って、大皿に盛られた刺身が「魚英」から配達されたり、普段めったにありつけないすき焼きだったりするから本当に腹が立つ。

 それでもうっかり箸をつけなかったりすると、とたんに買い食いがバレてしまうので、本当はゲーッと言いたいところなのをグッと我慢して、少しは食べなければならないのが辛かった。

 どんなに美味しいものでも、腹がいっぱいの時には、ただの苦痛の元でしかないのはどうしてなのだろうか。

 私はそれが不思議でならなかったので親に聞いてみたが、親は「そんな当り前の事を聞くんじゃない」と頭ごなしだった。

 でも本当は親も答が分からないから、怒ったふりをしてごまかしたのだと思う。

 あの頃は学校の先生だって、質問に答えられない時には、きまって質問した子供を叱り付ける人もいた位だから、親はそれ以上にごまかしをやったと私は思う。http://www.atelierhakubi.com/