アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -14ページ目

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161208

 【晴】《7日の続き》
「まあまあ御苦労様。さあ早く風呂に入ってさっぱりしてからご飯にしましょう」

 お風呂といっても、釜場の脇に置いてある大きな水桶に、湯釜の湯を汲んで水で薄めた中に入るので、普通の湯船の三倍位の大きさがある。

 コンクリートの床が直接洗い場になるから、一度に4~5人は楽に入れるのだ。

 その代り何の囲いもないので、周りからは丸見えだ。

 風呂から出て食卓につく三人と一緒に、私も一丁前に箸を取ったが、ヨッさんとハルさんはご飯の前に酒を飲むので、飯はヒロやんと私の二人が先に食べる事になった。

「おいヒロよ、あんまりがっついて俺達の分までおかず食うなよ」

 ヨッさんがヒロやんをからかうと、ヒロやんは物凄い勢いで飯を掻っ込みながら、「あいひょうふ(大丈夫)だよ、ふえんふ(全部)食いやひねえよ」と、ムキになって言った。

 おかずは野菜とアジとイカの天ぷら、マグロと赤貝の刺身、菊の酢の物、沢庵、海苔の佃煮、そして大根のみそ汁だった。

 私もヒロやんほどではないけれど、いつもなら絶対にお仕置になる程のがっつきようで飯を掻っ込んだ。

 みそ汁も天ぷらも何もかも、信じられない美味さだった。

「そんなに急いで食べなくても、ご飯は逃げて行かないよ」

 母は私を呆れたように眺めながら言った。

 私は今日一日で、自分が凄く大人になったような気がした。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161207

 【曇時々晴】《6日の続き》
 来る時にヒロやんが落ちた田んぼのそばを過ぎる頃になると、体はすっかり暖まって来たので、顔に当る外気の冷たさがかえって気持ち良かった。

 真正面は相変らずヒロやんの大きな荷に邪魔されてよく見えないが、左右の闇は沢山の灯をちりばめて美しく広がっていた。

 この辺は北の足尾山系を除いて東西と南に山はなく、昼間通ると見渡す限り田園が広がっている所だから、夜のこんな時間に街道を走る事など一度もなかっただけに、緑町などと比ではない夜気の厚さが身にしみ込んで来る。

 私を気遣いながら先を急ぐ三人は、もうほとんど口を開かず、耳に入るのはシャーというチェーンの廻る音と、自転車の車輪が砂利を噛む音、そして三人の少し早い息遣いだけだった。

 それらの音が段々とリズムを刻むようになると、私にはそのリズムがとても快いばかりでなく、私の足もそのリズムに合わせて、いつかペダルを踏んでいた。

「足利に入るぞ」

 ヒロやんが弾んだ声で教えてくれたので、私は「ウン」と返事をして、遅れていない事を知らせた。

 渡良瀬橋にさしかかる頃になると、三人共安心したのか急に喋り始め、時々冗談を言っては高笑いをしながら自転車を走らせるようになり、私もつられて気持ちがほぐれて行くのを感じた。

 今泉の土手を下り、新水園の前を過ぎて川万の辻を右に曲り、踏切を渡って人見医院の角を右に入ると直ぐに、乾し場までこぼれている工場の明りが目に飛び込んで来た。

 三人が横一列に並んで工場の入口に自転車を止めると、中からの逆光を浴びて大きな影法師になった。

 仕事を終えて間もないのか、ほとんどの人達はまだ帰らずにギリ場(糸の束を丸太に通して止め、廻しながら樫のギリ棒で叩きのばしてホツレを取る作業をする所)で寛いでいた。

 ギリ場に面した広い板の間の上り框には、多分私達のためのものか、食事の支度がしてあった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161206

 【晴】《5日の続き》
 私はそれを知った時、物凄く損をした気がした。

 それまでココアはコーヒーの出来損ないのような飲み物だと思っていたから、それがあのチョコレートと同じ物だと分かっていれば、もっともっと大切に飲んだからだ。

 それにしても、あの貴重なチョコレートを飲んでしまうなんて、人間というものは信じられないほど罰当たりな生き物かもしれないと、つくづく感じた。

 荷を積み終わった三人が、私を迎えに事務所に入って来たので、お姉さんにお礼を言って外に出た。

 空はすっかり夜になって、吸う息もハンドルを持つ手も冷たかった。

「さて行くべえか。今出れば8時には着くだんべ」

 ヨッさんの声を合図に、私達は自転車にまたがり帰路についた。

 小泉駅を過ぎて道を右にとり、足利に向かって北上して行く内に、私はある事に気が付いた。

 小泉に向かって南下して来た時よりも地平の灯がずっと濃くて、とても華やかな気分にさせられるのだ。

 夜の闇の中を走るのにも関わらず、来た時のような心細さがほとんどなく、暗闇への不安も感じない。
何よりも不思議なのは、来る時よりも道程が短く感じる事だった。

 私は不思議に思って「ヒロやん、この道は来た時と同じ道?」と聞くと、「同じだよ」と教えてくれた。

 今が何時頃なのかよく分からなかったが、その時の私には夜中を旅している恐さなど欠片もなかった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161205

 【晴】《4日の続き》
 米軍基地がある土地柄なのか、チョコレートを箱ごと置いてあるなんて、足利ではお菓子屋でもない限りあり得ない話だったから、両手でさえズッシリと重い箱を受け取った時には、まるで世界中の宝物を一人占めしたような気分になった。

 いくら抑えようとしても勝手に笑ってしまう顔をおじさんに向けて、「ありがとうございます。みんなで分けます」と、やっとの事で礼を言うと、おじさんは「ヨーシいい子だ。父ちゃんと母ちゃんを大事にするんだぞ」とニコニコ顔で答え、席を離れて事務所を出ていった。

「ボクよかったね社長にチョコ貰えて。落とさないように自転車に縛ってあげるからね」

 事務員のお姉さんはチョコレートの箱を茶紙に包むと、荷をおろして事務所脇に置いてある私の自転車まで私を連れて行くと、慣れた手つきで箱を荷台に括りつけてくれた。

「ハイッこれでよし。大丈夫だと思うけれどあんまり揺らさないように乗ってね。割れても味は同じだけど、割れてない方がいいもんね」

 銀紙を剥す前に中身が割れていたチョコレートを貰った時、物凄く損をした気になった事のある私は、絶対に割るものかと堅く決意した。

「なんだもう積んじゃったのか。待ってろこれも一緒に持って行け」

 おじさんがミカン箱を一箱ぶら下げてやって来ると、さっきお姉さんが縛ったチョコレートの箱を解いて、ミカン箱と合わせて縛り直した。

「よし、これを母ちゃんに持ってけ。チョコはお前のだけど、このミカンはお母ちゃんに渡すんだぞ」

 私は「ハイ」と返事をしながら思わずミカン箱を撫でていた。

 おじさんは私がミカンを貰ったのが嬉しくて箱を撫でていると勘違いをしたのか、「ワハハハッ」と笑いながら私の頭を撫でた。

 本当の事を言うと、私はミカン箱とチョコレートの箱を一緒に積んだので、もしかしてチョコレートが割れてしまうのではないかと、それが心配だったのだ。

 それにもうひとつ、帰りは空荷でいいと思っていたのに、結局また荷を運ばなくてはならなくなったのが残念だった。

「ボク、みんなが帰れるようになるまで中にいなさい」

 お姉さんが私を迎えに来たので、荷をつけたままの自転車をそのままにしておくのが少し心配だったが、再び事務所に戻ると、さっき座っていたテーブルの上には、またココアが湯気を立てていた。

 私は(この家は何てすごいんだろう)と驚きながら、「これいいんですか」とお姉さんに聞いた。

「どうぞ、ボクのために入れたんだから遠慮なく飲んでね」と、お姉さんはニコニコしながら返事をした。

 私は喜び勇んで二杯目のココアにとびつくと、フウフウ息を吹きかけながら飲んだ。

 飲みながら(ココアの味とチョコの味は似ているな)と思ったので、それをお姉さんに話すと、お姉さんはケタケタ笑いながら、「何だ知らなかったの。ココアもチョコも同じものよ」と教えてくれた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161204

 【曇のち晴】《3日の続き》
 辺りがどんなに暗くても、漂ってくる夕餉の煙の匂いで、まだそれほど遅い時間ではないのと、目には映らなくても人家のある事が分かって、さっきまでの不安な気持ちが薄らいでいった。

「ホラ、そろそろ小泉の町だ。よく頑張ったなあ、もう少しだぞ」

 ヒロやんが嬉しそうな声で私に教えてくれたので、視線を前に凝らしてみた。

 直ぐ目の前はヒロやんが運ぶ大きな荷で塞がって何も見えないが、斜め横を見ると少し先の空が明るくなっていて、黒々とした森の影の下には、今までとは段違いの灯火が瞬いていた。

 私は安堵の余り思わず「ホーッ」と溜息をついてしまった。

 間もなく道は砂利道から舗装道路になり、店や人家の並ぶ町中を少し行って、駅の前を過ぎてから最初の角を曲った所の、問屋さんのような店の横から中に入って自転車を止めた。

 通りに面した事務所や中の仕事場にも、多勢の人達が忙しそうに働いていて、活気のある雰囲気を作っている。

 その中にひたっていると、私はとても安心した気分になれた。

 ヨッさん達三人が持ち帰る荷を自転車に積んでいる間、私は事務員のお姉さんに手を引かれて事務所の中に連れて行かれ、ココアとビスケットをごちそうしてもらった。

 ココアの味は舌もほっぺたもとろけそうなほど美味かった。

「ボク何年生だ」

 奥の一番大きな机に座っている男の人が、手に持った煙草を吸いもせずにとぼしながら言った。

「4年生です」

「そうか、もう家の手伝いが出来るのか。えらいえらい」

 そう言ってほめてくれたのだが、私は何だか子供扱いされているような気がして、内心は少し面白くなかった。

「途中転ばなかったか」

「ハイ、大丈夫でした」

「そうか、それじゃおじさんがご褒美をやるから、こっちに来い」

 私はご褒美という言葉につられておじさんの前に駆け寄って行くと、おじさんはさもおかしそうに笑って、机の引出しから茶色くて細長い箱を出すと、「ホラこれ持って帰れ、一人じゃなくてお兄ちゃんやお姉ちゃんにも分けてやるんだぞ」と言った。

 私はその箱を見た瞬間、(アッ、チョコレートだ)と分かった。
しかも一枚ではなく箱ごとのチョコレートを貰えるなんて、まるで夢のような話だったから、私は何と言っていいかとっさには言葉が口に出来ず、半分気絶したとしか言いようのないショック状態に陥ってしまった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161203

 【晴】《2日の続き》
 自転車屋から少し走って部落を抜けると、私以外の三人は前照灯を点灯した。

 発電機で点灯するとペダルが重くなるので、三人共ハンドルの下の金具についている箱型の懐中電燈を灯したのだが、私の自転車にはそんなものはついていないので、一番うしろを走っていれば点けなくても良いだろうという事になったのだ。

 私は少し不満だったけれど、おとなしく言う通りに無灯火で走らせたところ、100mも走らない内に危なくて運転できず、自転車を降りると、「ヒロやん危なくて乗れないから電燈つけて走るよ」と声を掛け、急いで発電機を倒して自転車に飛び乗った。

 ほんの数秒の事だったが、三人の自転車は闇の中にとけ込んでしまい、ユラユラと揺れる三本の光の帯だけが、何とか視野にとらえる事が出来た。

 私は置いて行かれそうな気がして、足が物凄くだるくなって、頭から血の気が引いて行くほどの恐怖に、思わず「ヒロやーん」と大声で叫んでしまった。

 ヒロやんは今度こそ転ばないように注意深く自転車を止めると、両足をふんばって荷を直立させた状態を保ちながら、「どしたケガしたか、ひっくりけったか」と心配そうに問いただした。

「ウウンそうじゃないけど、置いて行かれるかと思って…」と答え、そのあと何とも言えない恥かしさで顔がカーッと熱くなってしまった。

「何だおどかすない。大丈夫置いてなんか行きやしねえよ」

 そして少し前で自転車を止めている二人に、「オオイ、何でもねえよ、大丈夫だから行ってくんな」と声を掛けると、「それじゃ少しゆっくり行ってやるから離れずについて来いよ」と言って、再び自転車のペダルを踏んだ。

 私は自分が恐いというより、ヒロやんやヨッさんやハルさんに心配をかけたくない一心で、前を行くヒロやんの自転車のすぐうしろを、懸命について行った。

 もう前照灯の当る所以外は、真っ暗闇になっていた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/161202

 【晴】《1日の続き》
 ヒロやんの声に励まされて、私は一刻も早くヨッさんとハルさんのもとに行きたいと、ほとんど駆け足に近い速度で自転車を押した。

「そんなに急がなくったって二人は逃げやしねえよ」

 ヒロやんは笑いながら私の背に声を掛けたが、その声は心なしか少しホッとした様子がこもっていた。

 田んぼが突然終わり、街道の両脇は深くて高い屋敷林が、まるで森のように続いていて、意外に多い人家が、その森の根方に続いていた。

 ヨッさんとハルさんは私達が追い付くと、100mほど先の火の見櫓を指差して、「あの火の見の辻の角にある自転車屋に話つけてあるから、そこまで一ふんばりしろ」と言った。

「ハイヨッ」

 ヒロやんは威勢の良い返事をして、二人のそばに立ち止らずに先を急いだので、私もヒロやんの後について先に進んだ。

 もう辺りは夜に近い闇の中にあった。

 地上の暗さに比べて、まだ銀灰色の明るさが残っている空を背景にして、火の見櫓が黒々と立っている辻まで来ると、手前の角に自転車屋があり、その前にはヨッさんとハルさんの自転車が夜目にも分かる大きな白に荷を乗せて止っているのが見えた。

 その店は軒が目立って低く、中古の自転車や修理道具が散ばっている土間は、街道から一段低くなっているような作りで、西と南に広い間口が開いていた。

「直ぐに張るから奥で茶でも…」という店の主人に促されて、私達は土間の奥の上り框に腰を掛けて、家の人の入れてくれたお茶を飲みながら、お茶請けに出された沢庵をほおばった。

 先に来たヨッさんとハルさんに事情のあらましは聞いていたのか、小柄で温厚そうな店の主人は、ヒロやんの事を盛んに気の毒がっていたが、話しながらも手はめまぐるしく動いて、アッという間にパンク修理を済ませてしまった。

 修理代100円の他にタバコ銭を加えて、しきりに辞退する主人のポケットに強引にねじ込むと、街道まで出て来て恐縮する主人の声に送られながら、私達は自転車に乗った。http://www.atelierhakubi.com/