アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草 -6ページ目

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170202

 【晴】《1日の続き》
 「東坂」を越えて五十部に入った葬列は、坂の下で直ぐ右に折れ、山沿いを北に上って行く。

 北関東の冬特有の冷たく澄んだ空気を通して、大岩毘沙門天を中腹に抱えた大岩山と、大岩の谷を囲む稜線が、寒々と眼前にあった。

 人家は山裾に疎らにあるだけで、大岩の谷は冬枯れの野と田が、吹き荒ぶ赤城颪に震えていた。

 あまりの寒さに尿意をもよおした私は、近くの人に断って列を離れ、道の脇で用を足している内に、葬列はみるみる遠ざかって行き、鼻のように突き出た里山の突端から、谷を横切る道に踏み入れて行った。

 先頭に立つ何本ものノボリ旗がほとんど真横にはためき、百人近い人達は全て顔をうつむけ前のめりになって強い向い風に耐えている。

 私は長い放尿が終わっても、しばらくの間葬列に目を奪われていた。

 耳に入るのは吹き荒ぶ風と、何かが飛ばされて発てる音だけ。
黒茶色に冬枯れた山と野の中を、のろのろと進む黒い帯のような葬列には、子供にもはっとする程の美しさがあった。

 あの列の中心に、おじいちゃんの眠る棺があるのだ。

 私は棺の中のおじいちゃんが、列の前後の人達を指図して進ませているような気がした。

 折からの陽に列の中の所々が金色に光るのは、きっと墓に供える供物の類に貼った金紙の反射だろう。

 この様子だと葬列はかなり遠くまで行ってしまったらしい。

 私は急いで田のあぜを選びながら、直線に近い道を走って列を目指した。http://www.atelierhakubi.com/


著者: 陳 建功, 岸 陽子, 斉藤 泰治
タイトル: 棺を蓋いて

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170201

 【晴時々曇】
 近所のおじいさんが死んだ。

 脊椎カリエスという病気で長く床に就いていたが、一昨日の朝、家族に見守られての最後だったという。

 私は家の使いでいつも訪ねていたので、よくおじいちゃんの話し相手になって、病床の退屈凌ぎに手を貸した。

 だから、おじいちゃんの死は、私にも辛い出来事だった。

 おじいちゃんの家の菩提寺は、近くの福厳寺ではなく、7丁目の切通しを越えて今福に入り、更に五十部を抜けた大岩にあったから、葬列が家を出て墓地に着くまでには、多分一時間以上かかるだろう。

 母は私が葬列について行くのを、道が遠いのを理由になかなか許さなかったが、何度も熱心に頼んだおかげで、決して独り歩きをしない事を条件に許してくれた。

 たまたま葬儀の日は日曜日だったから、学校を休まなくて済むのも、母が許してくれた理由のひとつなのだ。

 葬儀が終わり、じゃんぼんのドラの音に集まって来た子供達への念仏玉が済むと、何本もの高いノボリ旗を先頭にして、長い葬列は別れを惜しむかのように家の庭を三度まわると、逆川に沿った道を北に進んで本街道に出ると、そこを左に曲って7丁目交番前を抜け、切通しを渡って山沿いの道に入った。

 折からの強い西風に、ノボリ旗はほとんど真横に棚引いて、葬列の人達のマントやコートをはためかせて止らなかった。

 私は葬列の真ん中あたりを、大人達に囲まれて歩いていたが、吹きつける寒風に凍えた体から、小刻みの震えがやむ事なく生まれて、こんな日にお墓に入るおじいちゃんは寒くないだろうかと思った。

 その頃はまだ埋葬のほとんどは土葬だったのだ。http://www.atelierhakubi.com/


著者: 大野 裕
タイトル: こころが晴れるノート―うつと不安の認知療法自習帳



著者: チャールズ M.シュルツ, Charles M. Schulz, 細谷 亮太
タイトル: チャーリー・ブラウンなぜなんだい?―ともだちがおもい病気になったとき



著者: 石原 結実
タイトル: 「体を温める」と病気は必ず治る―クスリをいっさい使わない最善の内臓強化法

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170131

 【晴】
 信じられない事だが、母屋の便所には電燈がついていなかった上に、その場所が北の濡縁の端で半分外に出ている形だったので、いくら部屋の明りをつけていても、夜は真っ暗な中で用を足さなければならない。

 その怖さは、まるで冷たい手が体の中に入って来て、魂をグッと掴んで引き出して行くような気持ちだった。

 母の手が空いている時には、半分開いた便所の戸の外に立って、私の用が終わるまでいてくれたが、いつもという訳にもいかず、大抵はブルブルおびえながら真っ暗な闇の中にうずくまり、じっと耐えていなければならなかった。

 そんな時、目の前の闇の中には、人間にとって恐ろしい色々なものが、確かな手応えで息づいている気がしてならず、思わず大声で歌を歌ったり数を数えたりしてごまかした。

 上の姉は私よりずっと臆病だったから、しょっちゅう私をつかまえては便所の脇に立たせたが、こっちには男の意地があったので、姉に見てもらう事は決してしなかった。

 第一そんな事をすれば、姉は自分を棚に上げて、何かにつけて恩着せがましく言い立てるに違いないのだ。

 便所だけでなく、外の物置にも明りがなかった。

 そこには漬物の樽も積んであったから、私や姉達も親に言いつけられて夜の闇の中を、漬物を取りに行く事もあった。

 物置は便所とは違う怖さがあって、お化けや幽霊の怖さではなく、人さらいや泥棒、それから浮浪者のような、どちらかといえば人間の怖さがつきまとっていたのだ。

 その頃、時々ではあったが、物置や家の影などに、無断で野宿する人などがいたからだ。

 それでも私は夜の便所よりも、物置に入る方がずっと良かった。

 相手が人間なら何とか戦えるし、もしかしたら勝てるかもしれないからだ。

 同じ闇でも、布団の中の闇は少しも怖くないのはなぜだろう。

 その事を親に尋ねると、親は「布団の中は母親の腹の中と同じだからだ」と教えてくれた。

 私は本当にそうだなと、心底思った。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170130

 【晴】
 弟が風邪で熱を出して寝込んだので、母は看病にかかりきりでいた。

 我が家ではいつもの事なのだが、子供が床に就くと、母はとても神経質になってしまうのだった。

 ずっと以前に女の子を二人亡くしている事が原因らしい。(※16年3月29日30日参照)

 そして、病気になると必ずやられるのは、まずピストルという大きなアンプルに入った薬を飲まされ、ノドを痛めていると、お医者さんが使うような銀色の針金の器具の先に脱脂綿を巻きつけ、そこにルゴールをつけてノドの奥をグリグリとやられる。

 どんなに我慢しても、それをやられるとゲーッとやってしまい、時には本当に吐いてしまう事さえあった。

 熱がある内は、リンゴをおろし金で摺ってガーゼで絞ったジュースが飲めたのが、苦しい中の楽しみだった。

 物が食べられるようになると、まず病状によっては重湯かカタクリ、少し良くなって来るとおかゆが出て、もっと良くなると濃いおかゆになり、時には玉子雑炊や軟らかく煮たうどんも食べられた。

 しかし、普通のご飯はなかなか食べさせてもらえず、寝込むという事は腹の減る事と同じ意味を持っていた。

 どういう訳か大抵の場合、飴だけは口にする事が出来て、最初の内は口の淋しさを紛らわせられるのだが、その内に甘いものより塩味のするものを口に入れたくなって来る。

 そんな時母は「絶対に食べちゃダメだよ」と注意して、タクアンを一切れしゃぶらせてくれた。

 少し熱っぽい体には、タクアンの味は何にも増して美味なものだった。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170129

 【晴】《28日の続き》
 三味線で弾き語る男の人の唄は、私にとって全く未知のものに触れているのと同じだったが、子供が踏み込んではならぬ、甘美で物哀しい大人の世界の事なのだという事は、何となく理解する事が出来た。

 音を聞きつけて近所の人達が次々と庭に集まり、誰が音頭をとるでもなく半円の人垣が出来ると、三人は音と踊りに一区切入れて見物の人達に向き直り、深々と頭を下げたあとに、男の人が「ご近所の皆様ひとときお騒がせを致します。この度またご当地におじゃまさせて頂き、相変らずの拙い芸ですが、お退屈凌ぎにお目にかけますので、今年もまたよろしくお願い申し上げます」と、文字通り芸居がかった挨拶をした。

「久し振りだね清さん。相変らずいいノドしてるじゃないか」

「おかみさんも娘さんも益々芸達者になったね」

 顔見知りの人達が次々に声を掛け、庭の一隅に小さな祭の花が咲いた。

「本場のジェルソミーナは一人だけど、このジェルソミーナは二人だな」

 下の兄が腕組みをしながら呟いた。

 私は直ぐに、今、兄の言ったジェルソミーナが、最近話題になっているイタリア映画「道」のヒロインの事だと気付いた。

 その途端、目の前で踊っている二人の女の人の姿と、映画の中のジェルソミーナが重なって、私は自分でも驚く程大きな感動の渦に巻き込まれて行った。

 私は、清さんが、あのザンパノのように、ジェルソミーナに辛く当たるような事のないように黙って祈りながら、静かで物哀しい踊りを見入っていた。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170128

 【晴】《27日の続き》
 徳正寺のマユ玉市も終わり、正月気分を味わえる材料が、どこを捜しても見当らなくなって来た頃になると、三人組の旅芸人が、踏切脇の飯島旅館に寝泊りしながら、緑町から栄町、そして通5丁目辺りの元町を門付けして歩いた。

 男の人の三味線に合わせて、若い女の人と少し年かさの女の人が歌い踊る姿は、色鮮やかな衣装と化粧と相俟って、そこだけが現実離れしているような気がした。

「ごめんください。またお庭先をお借りします。おかみさんお久し振りで、またお世話になります」

「あら、よく来ましたね。早いもので、あれからもう一年経ったんだね。皆さんもお変わりないようで何よりです」

「ハイおかげさまで家族一同何とか年を越しまして、またこうしてお伺いする事が出来ました」

「本当にね、達者が一番ですよ。体さえ丈夫なら、人間何をしたって食べていけますからね」

「全くで、こちとら体が丈夫なだけがとりえで、あとは何もありませんですからね」

「人間なんて座って半畳寝て一畳って言うじゃないですか。達者で働ければ、お天道様と米の飯はついて来ますって」

「私達も、それだけが頼りで、こうして皆様のお情けにすがって稼がせて頂いております。それじゃあおかみさん、ちょいとばかりお庭先をお騒がせ致しますんで」

「あ〃どうぞどうぞ、ご近所の人達も楽しみの事でしょうよ」

 母はそう言うと、ギリ場のゲタを引っ掛けて庭先に出て行った。

 門付けの人達は、工場の庭の片隅に立つと、一言二言打ち合わせたあとに、少しの間気息を整えた。

 やがて三味線にバチが入り、短い前奏が終わると、膝を揃えてその場に控え、片手の指先を地面について礼の姿勢で静止していた女の人達が、ゆっくりと立ち上がって舞い始める。

 男の人は三味線を弾きながら、これから拙い芸を披露するので、どうか見物して下さいといった意味の口上を、静かにそしてゆっくりと歌い、その声は次第に張りを増して、周囲へと流れ伝わって行った。http://www.atelierhakubi.com/

アトリエ雑記…肖像画職人の徒然草/170127

 【晴】《26日の続き》
 流しの獅子舞に似たものに、もっともらしい衣装と小道具を使った拝み屋の偽者が、突然大声で祈祷しながら家の中を踊りまくって金を要求する手口もあった。

 手に持った拍子木や鐘のような鳴り物を力いっぱい叩きながら、まるで気が狂ったように訳の分からない祈りの文句を喚き散らし、踊りの形を借りて暴れ回られると、大抵の家では小銭を渡してしまうのも仕方がない。

 驚いた子供がひきつけを起こした家もある位だから、その恐さは並ではないのだろう。

 変わったのには、いきなり黙って入って来ると、「テメエ馬鹿野郎ふざけやがって、表へ出ろ」などと、前置きなしにケンカを売って来て、最終的に金を巻き上げるという手口だ。

 金といっても、大抵は5円か10円程度の小銭だったから、門付けに施したつもりで、ほとんど訴える事はなかった。

 むしろ被害が大きいのは押し売りの方で、普通に買えば10円か20円の品物を、10倍の100円とか200円以上で売りつけるのだ。

「おかみさんよ、大の男が時間を使って商品を広げさせられ、いりませんと言われて、ハイそうですかと荷物をまとめて引き上げられるかよ。この手間どうしてくれるんだ。エーッ」という感じで脅す。

 頼みもしないのに勝手に荷物を広げ、あげくの果てには難癖をつけて凄まれると、女はおろか、気の弱い男だって買ってしまうかもしれない。

 あの頃にも、今ほどではないが悪質な手口で金品を奪う人達がいたのだ。http://www.atelierhakubi.com/